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読書No.45 アートがわかると世の中が見えてくる 前崎信也

ついに45冊目、今回はアートについてです!

 

読書No.45
タイトル:アートがわかると世の中が見えてくる (リンクです)
著者:前崎信也
評価:4.6(S)

こんな方にオススメ:アート・文化・美術館に興味がある方


 

[本のご紹介]

美術はそもそも誰に向けて作られたかといえば、お金持ちと宗教が大きな候補であった。前者は、華美なものを配置することによる権威づけのため、後者は人々に神を信じてもらうために空間を神秘的なものにするためである。特に、宗教施設は壊されたりしにくいので後世にまで作品を残す場所として芸術家からも好まれた。日本仏教の場合で考えると、宗派により特徴が異なる。臨済宗は中国からの最先端の知識が集まる場所であり、鎌倉、室町時代には将軍、政治と結びつきが強かったため権威付の要素が強く煌びやかである。そのため、京都の清水寺以外はおおよそ臨済宗である。一方でその他の浄土宗、浄土真宗、日蓮宗は少数のお金持ちを喜ばせるより費用対効果が高いとして西本願寺のように一度に人の心を鷲掴みにするような大きな場所を作った。

 

このように金持ちと宗教のために作られてきた美術であるが、日本の美術が美術史のように系統立てられたのは明治期である。当時は、ヨーロッパの国々の帝国主義により次々植民地化がなされていく中、日本も軍事や経済の増強や自国の文化を発信し、遠い東の国ながら懸命に外国へ向けてアピールを行なっていた。1862年にロンドン万国博覧会に参加した福澤諭吉は外国との技術差を感じ、帝室論を記した。西洋人に誇ることができるもの、中国にないもの、もしくは中国から日本が学び作り替えたものを基準に日本の文化を選んだ。その上、この問題を文部省の役人に託すことはできないとし、お金を産まない芸術を救うことができるのは政治社会の外にある帝室だけだから、宮内省に予算をつけて芸術を保護させるべきとした。なので、帝室博物館(現:東京国立博物館)は天皇に属するものであった。私たちが今日本の文化であるとしている茶道や華道といったものはこの時期に日本文化として美術史に当てはめられたのだ。

 

そのように始まった美術館建設であるが、今や数が増えすぎていてその老朽化や改修コストが問題となっている。ここまで美術館が増えたのには大きくふたつあり、一つはバブル期に地方にも文化をとの機運が高まったこと、ふたつめは第二次世界大戦後財閥解体など国民の総中流化が推し進められ、超お金持ちの方々のコレクションにも高い相続税がかかりこれらを財団を通じて美術館へと寄贈する流れができた。私たちのような一般の人でも美術を鑑賞できることはよくなった反面、コレクションの分散化の危機があったことはなんとも複雑である。

 

美術館に行くと解説や名前を聞いてもわかりにくいと感じた方も多いはず。これは展覧会を作る学芸員の評価方法にあると考えられる。簡単にいえば、一般の来場者に楽しんでもらうのではなく、専門家の方に評価してもらうべく作成しているのでどうしても専門的になってしまう。今後はSNSの普及や技術の発展により美術館の形態も変化していくかもしれない。そうした地道な努力を行うことで将来の文化を支える若い日本人の文化離れを防いでくれると私は期待している。

 

 

 

[読書による変化 Before → After]

 

読書前(before):美術について知りたいけど、どこから手をつけたら良いか分からない。

 

読書後(after):日本の文化の成り立ちがよくわかった。

 

 

 

 

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